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30.「第四次日露協約調印とその顛末」

鈴 木  勝

 大正4年12月末、ロシアのミハイロビッチ大公来日に当たり、寺内朝鮮総督と安達公使が接伴役として朝鮮安東駅に一行を出迎えた。日露戦争で勝利した日本は、平和共存外交で臨んだ。日本は中国東北部を入植開拓地にしたい思惑から、ロシアの満州鉄道の権益を日本に移譲するよう求めた。一方、ロシアは欧州戦争で必要な兵器や軍需物資の調達と関税問題を協約に盛り込みたいと考え、交渉に臨んだ。大公一行は日本での公式行事を済ませ帰国の途に着いた。大正5年7月、両国はその調印に漕ぎ着けた。当時、中国東北部では軍閥政府の弱体化に伴ない、馬賊匪賊が横行し、民衆の抑圧収奪が繰り返され、満州国建国は時間の問題と見られていた。同年8月、日本は答礼として載仁親王殿下をロシアに派遣、安達はそれに随行した。その功績により安達は、ロシア皇帝から二度にわたり純金煙草入れを戴いたが、ロシア帝国は翌年崩壊した。



 
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